常識に囚われない
「成功」とは何だろうか。
色々な尺度があり、お金がよく言われる分かりやすい指標の1つだと思う。ただ、お金にはキリがないし、上を見上げてしまうと、世界大の戦いになり、真の勝者への道はあまりに遠すぎる。
また、一般的にしばしば「成功者」という言葉が無定義に使われている。それもまた、何をもって成功といえるのか。
常識に囚われることは、ある種「ラク」なことではあるかもしれない。ただ、それは私にとっては面白くないと思う。
もちろん、価値観や、感じ方は人によって違う。しかし、常識に囚われた先には、基本的には苦しみしかないことが嫌でも分かってくる。
主観的幸福度の大切さ
「成功者」と言われる人で、世間としても割とそれを認めている人は、幸せであるとつい思ってしまう。
実際、我々が知っているのは、その「成功者」の側面に過ぎない。インタビュー記事や内容を見て「凄い」「カッコいい」と思ってしまうが、それは、その人のこれまでの実績を美しくまとめたからそうなっているだけであり、良い面のみしか見ていないのだ。あくまでPRのための言葉を見聞きしているに過ぎない。
「家庭での時間が取れず後悔している」「子どもとの関係が悪かった」など、実は苦しんでいたことが分かる場合もしばしばある。ただ、それでも「総じて」幸せだったのでは、と思ってしまう。
しかし、知人の範囲でそのギャップを理解すると、「幸福とは自分の心が決めるんだな」と思えるようになってきた。
順調にキャリアを歩んできていると思われた40〜50代の方が、家庭環境が悪く家の中にいるのが辛いという話をしていた。いつもは割と寡黙な方という印象だったので、お酒も入り、その苦しい部分を吐露する様子が意外だった。
そう思うと、たとえ成功者であっても、苦しい場合もあるのだ、と類推できるようになってきた。
やりたいことだけをやる覚悟
特に思春期は、生きる意味をよく考えてきた。ただ、結論からいえば、生きる意味なんてない。
恐らく自分の知人の誰が亡くなったとしても、人類史が変わるほどのインパクトはないだろう。
そして、仮に人類史を変えるインパクトを持つ偉人になったとしても、その人類史の変化後をずっと見ることはできない。
そうであれば、自分がやりたいことのみをやっていればいいんじゃないか、と思えるようになってきた。
もちろん、やりたいことをやるために、多少気の乗らないことはやる。ただ、人に合わせるためだけにやる行動は、できるだけ減らした方が自分の幸せ度に寄与するのではないか、と思うのだ。
やることを決め、やり切る。それが大事だと感じるのだ。