美しいことと言葉にすること

美とは無駄なことなのだろうか。

かつての私は、間違いなく無駄なことだと思っていた。高校時代まで美術・音楽が教科としてあったが、その時間は義務感を強く感じていた時間だった。

しかし、人間にとって必要なことだと思えるように考え方が変わってきた。その変化について述べていこうと思う。

正解を求める文化

私は日本育ちなので、外国においては違うのかの対比はできないが、日本での学校教育の弊害の1つとして、「正解を求める」ということは確実にあると思う。

確かに、テストで点数を付けて理解度を試すやり方は効率的でもあるし、指標を測定可能にするという意味での重要性は否定しない。

それでも、学生にとって、あくまで「実力をできる限り客観的に測定する」ために実施しているのに過ぎないテストは、それ以上の「人間力を測るもの」のように理解されてしまっているように思うのだ。

思い当たることは色々あれど、個人的に、小学校・中学校の授業で印象に残っていることがある。

それが、授業において、宿題などを答え合わせのシーンだ。

先生が生徒を指名し、その生徒が回答し、その回答に対して、周りの生徒が「そうです」「違います」というシステムが存在していた。

あれは、小学生ながらでもかなりのプレッシャーを感じていた。今から振り返れば、「あそこまでやる必要はないのではないか」と思う。

あの、周りから「違います」という否定の言葉を浴びせられるという状況は、正直、今されても結構精神的に辛いものがある。その上で、当時からすれば、人格否定とも等しく感じてしまっても何ら不思議ではない。

だから、「違います」と言われないように必死になっていたと思う。私自身は、問題を間違えても、周りが自信のある質問ではなかったので、運よく否定の言葉を一身に浴びることはなかったが、その雰囲気に怖さを感じていた。

そういう無数の小さなことの積み重ねが、正解を求める風潮を生み出しているように感じている。

すべてが正解の美しさの世界

その点、「美しい」ということに関しては、正解はない。感性は人によって違うからである。

もちろん、「評価されている作品」はある。しかし、それはあくまで「ある時代において」「有力者が」評価したものであるに過ぎない。

誰も知らない作者の絵をふと見たときに感じた、「美しい」という感情は、誰にも否定しえないのだ。その意味ですべてが正解なのである。

こうした「感じたことを重視する」ことは、していかないと鈍っていき、次第に心を殺していくことになる。

だからこそ、自分の中の「美しい」という感情は、大切にすべきである。

言語化してみること

私自身、「美しさ」について考えてこなかった側の人間である。かえって、論理を徹底的に追いかけてきたし、今でも、効率的な生活でありたいと思っている。

しかし、それだけでは説明できないことがあまりに多すぎるのだ。自分自身も効率的な生活をし切れないし、他人と接すれば人間が論理だけで稼働しないのは明らかである。

だからこそ、感性の重要さに自然に目線を向けるようになっていった。力を付けていきたいと思う。

それでは、「感じたことを重視する」ためにはどうすればいいのか。

それが、「言語化すること」である。言語化することで物事の違いが明確になるからである。

どんな小さいものでもいいから、そこから広げていくのである。

例えば、ラーメン。好きなラーメン屋は何が良いのかを無理矢理言葉にしてみる。麺の太さか、喉越しか、スープのあっさりさか。はたまたチャーシューが天下一品だと感じるのか。

そんなことを「しょうもないこと」と切り捨てず、言葉にしてみることで、見える世界が広がって、生きる希望が湧いてくると私は信じている。

この記事を書いた人

相羽涼太

相羽涼太

読書、手帳術、旅行記・訪問記・食レポ、ジム(運動、食事)、英語学習などを中心に記事を更新します。

インターネットの登場で、「考える」ことが減りがちな今こそ、自分なりの軸を持って、考え、発信していくことを大切にしたいと考えています。

SF(上位10位、2019年1月現在):慎重さ、収集心、個別化、責任感、自我、指令性、目的志向、自己確信、信念、学習欲