昔から毎食のように米を食べてきた。
時に朝食は食パンにしてみたり、外泊でホテルで朝食を取るときはパンのみで対応することはあったが、基本的には毎食のように米を食べてきた。
しかし、必ずしも米を食べることがいい訳ではない。一定量の炭水化物を確保する方法は他にもあるはずなのに、頭の隅にもなかった。
今回は、この「コメ」という切り口から固定観念についての考えを深めていきたい。
ご飯が当たり前の生活
小さい頃はご飯をいっぱい食べていた子どもであった。
明確なエピソードはないので、物心がついた頃には米を良く食べるのがすでに当たり前になっていた。毎食コメが出てくるという幼い頃の環境と、恐らく親を含め、周りに「いっぱい食べるねー」などと感心された記憶はあるので、そういうことを言われるのを「褒められた」と当時の幼い私は解釈したのだろう。
そうしたことからアホみたいに白米を食べていた。ファミレスでご飯お代わり自由の店があれば、必ずお代わりを要求するほどにはハマっていた。
玄米を信じすぎた
以前、ボディメイクのために、白米から玄米に変えたことがあった。
こうすることによって、GI値が下がるので、血糖値の急上昇を防ぐことができ、食べた後眠くなる作用が緩和されると知った。
しばらくやってみて、確かに眠さは減少した。それでも米は米である。パフォーマンスが多少は良くなるかもしれないが、入手が面倒であればそこまで努力するものでもないかな、という効力ではあった。
玄米を過信してしまっていたのだ。米に対する強烈な固定観念があったということだったと今では思う。
芋食への違和感
地理の授業で、「外国の中にはキャッサバなど芋を主食とする国がある」と習う。
ただ、知識としてそういうものは認識はするが、自分の中では芋がご飯の代わりになるとはどうしても思えなかった。
実際、芋でお腹が一杯になる様子は想像できなかった。芋といえば、ジャガイモのイメージで、ステーキやハンバーグにトッピングされているものを想起していた。
当時は気がつけなかったが、今の観点からそう認識していた昔の自分の姿を見たとき、昔の自分が固定観念にとらわれていたことに気がついた。
サツマイモでもお腹は一杯になる
固定観念のようなものは、多くは勝手にイメージの中で間違えたものが膨らんでいる状態であるように思う。
それを打ち破るのは経験である。
実際、ある休日に、ご飯は一切用意せず、サツマイモを切って焼いたものを主食としてみた。サツマイモもそれこそ「石焼きイモ」のイメージで、砂糖を加えておやつとして食すイメージがあった。
しかし、シンプルにただ焼いて食べるだけで、十分に甘さを享受できる。そして、別に間食に位置づけず、芋だけ食べていても十分にお腹が一杯になっている自分がいた。
最初は違和感をかなり感じたが、数回やったときには芋も主食となりうることを自分の身体でも認識することができるようになってきた。
炭水化物を摂取する
米は何のために食べているのかといえば、炭水化物の摂取のためである。
そして、他の栄養素と同じように、色々なアプローチから確保することが大事だと思う。
どうしても、人間は同じ刺激だと飽きてしまうのだ。私は、米は当然食べるものとだけ思い、美味しさを認識せず量だけを食べていた。
だからこそ、「変わりたい」意思に行動が伴わなかったのだろう。
必要なことは、刺激をいくつか変えて、量を減らしても満足度を変わらないよう工夫しつつ食生活を構築していくことだった。
気が付いたときに固定観念という名の落とし穴ができていることがあり、そこには注意したい。