生活における音の問題について

音に対しては、人によって感受性が異なる。

集中できる環境を例に挙げても、無音が好きな人もいれば、ある程度音がある方がいい場合もある。

私の場合、全く無音というのは厳しいが、うるさ過ぎると余計に厳しいので、そのバランス感が重要であり、そのバランスを取るのにしばしば苦戦を強いられる。

今回、そんな音について考察を深めたい。

うるさい

うるさいのは非常にストレスフルだ。人によっては結構我慢強い人もいるかと思うが、私の場合はうるさい場合のストレス耐性が非常に低い。

ちょっとやり過ぎた気もしたが、仕事上で、打ち合わせスペースが用意されているにも関わらず、自席の隣で立ち話で議論されたときには、気がついたときには机を何度も叩いていたこともある。その後で謝ってこられたとき、結構相手が焦った表情だったので、どうも自分で思っている以上に行動に出てしまうようだとそのときに認識した。

例えば、先日、昼時にカフェに行った。カフェは状況に結構左右されるが、最近では客の会話がうるさいということはなくなってきている。最近カフェで何が最もイライラしたかと言えば、店員がうるさいということだった。

店内利用客が少なくない状況だったからだと思うが、店の状況を常にアナウンスしているのだ。喫煙席と喫煙席の空き状況をアナウンスしている。

それは、来た客にとっては親切に見えるが、着席している側からすれば迷惑でしかない。声があまりに大きい。それをしたいのであれば、着席状況を電光掲示板で示す投資をしてくれ、とアイデアを考え出すほどに阻害された。

その行為は、客の回転は早くなるとは思うし、それは売上に貢献するとは思うが、正直、私はもうそのカフェをその時間帯には利用しないことを決断した。

うるさいと、そんなことを考えてしまうほどに思考が遮られるのが嫌だ。

静か過ぎる

かといって静か過ぎる環境もずっといることができない。静か過ぎる環境の例といえば、自宅などが典型例である。

うるさいのに比べ悪くはないのだが、ずっといるとなると単調な感じがしてしまう。

ここは私自身が抱える課題で、彩りを工夫するとかして、もっと家の中でできることを増やしていきたいと思う。特にこのコロナ関係で、外にいるときにはマスクが必要になってくるし、また、冷房問題もあるので、ここは現在抱えている大きな課題となっており、早々に対応していきたい。

適度な音

では、適切な音となると、どんな感じなのだろう。

本のページを捲る音、ドリンクをシェイクする音、コーヒーをグラスに注ぐ音、落ち着いた店員さんの静かな受け答えなどは時にうっすらとした心地良さすらある。

これくらいの音がある方がいいと思う。

そう考えていくと、我々人間は当初原始的生活で自然に囲まれていたことと無関係ではない気がする。森などに行くと、動物などが音を出しているが、その音は結構大きくても気にならないのだ。

それらの音と似ているように感じているから、少し心地良さを感じているのかもしれない。確かに、コーヒー店で、コーヒー豆を取り出す際に出る音に不快感をあまり感じないのは、人間の原始的生活にあった行為で出る音だからかもしれない。

とはいえ、自然の中だと作業はできないので、カフェに向かってしまう。色々考えてみたが、地方にある隠れカフェのようなところが一番好きである。自然の装飾がされていると落ち着いた気持ちになる。

イアホンのありがたみ

とはいえ、そんな理想を求めるのは特に都心部では難しい。

そうなると、ある程度日常生活に適応するためにも、イアホンは必須になっている。

その点、ノイキャンのイアホンは本当にありがたい存在になっている。これのお陰で、ある程度うるさい環境であっても作業できるようになった。

個人的には、「時代を戻して欲しい」と思うことがしばしばある。情報の流通があまりに早く、ノイズ情報も増え、疲れてしまうのだ。とはいえ、便利になったのも事実なので、もはや戻ることはできない。

そんな現代生活の中で、如何に人間に適した原環境に類似した状態を再現できるかが生活構築のポイントになってくると思う。

この記事を書いた人

相羽涼太

相羽涼太

読書、手帳術、旅行記・訪問記・食レポ、ジム(運動、食事)、英語学習などを中心に記事を更新します。

インターネットの登場で、「考える」ことが減りがちな今こそ、自分なりの軸を持って、考え、発信していくことを大切にしたいと考えています。

SF(上位10位、2019年1月現在):慎重さ、収集心、個別化、責任感、自我、指令性、目的志向、自己確信、信念、学習欲