自分を出してしまってもいいのでは

気づいたら、自分を隠して生きていることが多くなっていた。

しかし、そんな生き方ではただ辛いだけであることも分かってきた。

これからはより自分を出していこうと考えたので、決意表明をしたい。

周りから見た自分が気になる

私は、人がどう考えているかを考えることが好きである。そのお陰で、人によって柔軟性を持たせて対応が必要な場面では、自信を持って対応することができる。

その反面、人からどう見られているかを気にし過ぎてしまうところがある。相手の期待に応えて動こうとしてしまうのだ。

行き過ぎなければ上手く機能する場面もあるが、行きすぎると自分軸で生きていない状態に陥ってしまうのだ。

期待に応えすぎた

過去の自分は、期待に応えようとして他人軸で生きてしまっていた。

親や教師、周りの生徒が自分に期待していると解釈していることをやることに注力していた。

幼少期だと、全てではないものの、概ね叶えられたことも多かったので、人生の満足度が増えていった。

しかし、そんな生活を続けていれば、期待値は上がり続ける一方である。そしていつしか叶えられなくなってきたとき、この生き方に限界を見つけたのだった。

つまらない人間になっていた

そして、自分軸で生きるための取組を進めている。

しかし、長年期待に応えようとした癖はなかなか抜けるものではない。特にネガティブな側面でその脱出が出来ていなかった。

私は、少しでも誰かに指摘されたり、馬鹿にされたことを辞めてしまっていたのだ。

これは先日ボイトレをしたときに気がついたことだが、自分の歌っている姿を鏡で見ると、想像以上に動きがなく、石のように真っ直ぐになっている自分がいた。

自分の姿を見て、「なんでこんなに面白くなさそうなんだ」と思った。

しかし、これは例えば立ち姿が癖があるとか少しでも陰口的なことを聞こえると直してきたからだったのだ。

人間にとって怖いのは変わっていることではない。個性が無個性になり、結果的に魅力がなくなってしまうことである。

そして、私は見事に無個性になっていた。もっと情熱的であってもいいと思うし、もっと笑顔であってもいいと思った。

自分の中のイメージとあまりに違ったのだ。

表情を出すこと

思えば、感情を押し殺し過ぎていたように感じる。

振り返ると、学生時代のときはもっと笑っていたと思う。当時どこが面白かったのかかは分からないが、少なくともよく笑っていたとは思う。

しかし、徐々に笑顔になることは減り、代わりに苦笑いをすることが多くなっていた。

そこから変わって、表情をほとんど変えない人になっていったような気がする。

確かに、感情を秘めることが必要な場面は存在する。それでも、原則としては、自分の思っていることは表に出した方がいいのかもしれない。

この記事を書いた人

相羽涼太

相羽涼太

読書、手帳術、旅行記・訪問記・食レポ、ジム(運動、食事)、英語学習などを中心に記事を更新します。

インターネットの登場で、「考える」ことが減りがちな今こそ、自分なりの軸を持って、考え、発信していくことを大切にしたいと考えています。

SF(上位10位、2019年1月現在):慎重さ、収集心、個別化、責任感、自我、指令性、目的志向、自己確信、信念、学習欲