これまで、「完璧主義」についてしばしば考えてきた。
実際、自分は完璧主義な部分がある。多少その部分を認識することでその思い込みは薄れてはきた。
しかし、モヤモヤしたところが抜けることがなかった。それは、自分の「完璧」がどこにあるのかを言葉にできないからであった。
完璧さの意義
完璧主義という言葉が一般的に使われてしまうので騙されそうになるが、この言葉は非常に曖昧である。
主義は、考えとかそういうものに言い換え可能だからまだ良いが、問題は「完璧」である。
そして、こうしたそもそも論の話は、その話をせずとも話の展開ができることから忘れがちである。
そのため、ここで、「完璧」について考えると、過去を思い返す中でその回答があった。
あくまで私の場合だが、自分が評価者になったと想定して作った「できる人」ラインがあり、それが「完璧」である。そのため、よく言われるような資料をプレゼンギリギリまで修正し続けているといったそういう完璧主義ではない。
私の場合障壁になっていることは、あらゆる範囲にその「できる人ライン」が広がってしまうことだ。それが出来ていればよく、出来ていないと苦しみを抱える。
そして、私は、自分について話しているときに、しばしば自分を嘲笑する癖があるのだが、その苦しみはそのときに現れていた。
捉え方を変える
それではどうすれば良いのか。
考え方は難しくはない。出来ていないという苦しみは、自分が空想上の他人と比べてしまうからである。
私の場合、1人の人間に対して嫉妬することはあまりないのだが、自分の不甲斐なさを憂うことはしばしばある。
それは、色々な人の長所・短所を見て、その長所を合わせた「出来る人」像を作り上げ、それを元に自分で評価することである。
そうであれば捉え方を変えればよく、一言でいえば自分を認めよう、ということである。今ある事実をしっかりと認めることである。
ここには2つの問題点が潜んでいる。
1つは、できてないと感じる方で、苦手なことは他人に助けてもらえばいいのだ。人間には偏りがある。苦手なことはできなくていいのだ。私の場合、初対面が苦手などだが、こちらは個別撃破で一部はできるようになってきた。不用意な劣等感は自分への牙になってしまうので、これからも減らしていきたい。
そしてもう1つだが、実はこちらの方が問題だったと気づいた。評価が「できる人」より上か下(と思う)かなので、出来ている方はそこで放置してしまっていたということである。私は割と人の強みを見ることは好きで、それが活かされていないともったいないなと思っていた。
しかし、実際にもったいないことをしていたのは自分だったのだ。得意を認識することはしてきたが、次のステップとして得意を伸ばすことへの認識が欠けていた。
捉え方を変えて、日々改善していきたい。