自由でありたい
私の中で、無意識に自由を求める自分がいます。
ここでいう「自由」とは、何もバックパッカーのような国内外を飛び回る自由ではありません。
人間が生活していく上では何らかの制約はありますが、制約による不自由を感じず、「やりたい」と思ったからやるという自分の意思を大事にして、お互いが大事にするという意味での自由です。
そんな個々人の中での精神的な自由を重視しています。
自然が好き
なぜ自由が好きか、と言われると、あまり理屈だった説明はできません。それこそ、「好きだから好き」というのが正直なところです。
とはいえ、自分が自由を望んでいることを知るのには時間がかかりました。仕方ないのですが、無意識で感じていたところも多かったため、実感が伴っていなかったのです。
そして、その実感は、自然の風景を見たときから自覚するようになりました。
例えば、海に行ったとき、海で泳ぐとしょっぱい海水を飲み込んでしまうし、潮風のモワッとした感じはあまり好きではありません。しかし、海自体は決して嫌いではなく、むしろ好きでした。
当時は言語化できていませんでしたが、好きなことは海辺から地平線を見つめることでした。端と端を見ると少し曲がっているのを実感でき、地球の丸さを実感できます。遠くに小さく船が見えるのもいいです。そんなときに開放感を感じます。
また、いわゆる田園部で見られるような綺麗な夜空の景色も好きです。星満天ということはそこまで求めてはおらず、最低限の明かりで静寂である様子であるのがいいな、と感じます。夜の黒さを感じるようなイメージです。
あたり一面に広がる草原も好きな景色です。一面同じ景色で、ずっとこの光景が続くようでした。ボーッと空間を楽しんでいました。少し横にもなってみて、いい空だ、とも思いました。
そんな一面に広がる光景が好きで、その空間にいる自分に自由があるように感じるのです。実際、そういうところにいるとき、時間を忘れて長居してしまっていました。
他人に寛容であること
自由を求めていることは、マイナスの面からも実感することができました。
それは、近年、不倫の問題に焦点が当たることが多く、気づくことができました。有名人が不倫問題を起こすと、色々な人が色々なコメントをしています。
その中で気になるのは、「責める」という行動に関してです。他人が責める点で引っかかりを感じてしまいます。
とはいえ、これは今に始まったことではありません。政治のスキャンダルは過去もずっとスクープの的にされていました。
「どうでもいい」と割り切れるのが、精神面にとって一番望ましい解だと思います。そして、本当にそう思っている人も割といらっしゃるという感触を持っています。
にも関わらず、私は、「責める」文化に潜む不寛容さに、どうしても違和感を感じてしまうのです。それは裏を返して考えると、それぞれの「自由」を尊重したい想いとリンクしているように感じました。
自由が大事にしたい価値観になっている
こうしたことを考えていくと、私自身にとって、自由が大事にしたい価値観であることに気づいてきました。
これが人生における「キーワードの1つ」と理解すると、今まで肩に負っていた荷物がドサっと下りたような感覚がしました。