依存について考える〜自己コントロールの観点から〜

コントロール権を自分に置くこと

私の中で、依存は広めに定義しており、自分自身を自分でコントロールできない状態にあると定義しています。

例えば、私は体重が太りやすい傾向にあるとは思いますが、学生時代は、痩せていて、食べても太らない人を見ては、遺伝が原因だと考え、それを恨んでいました。

しかし、その考え自体が既に依存的な思考になっています。遺伝かは分からないですし、仮に遺伝としても、それを変えることはできません。

状況を恨むのではなく、自分の身体に合う食材を探す・運動習慣を確定されるなどの試行錯誤に早々に移行すべきだったと思います。

そのように、依存状態は、世の中のあらゆるところに埋まっています。

そして、依存の恐怖は、自分自身がコントロールできていないことを無自覚なときに起こります。

自覚的であるにはどうすればいいのでしょうか。私は2つの方法があると考えています。

依存を自覚する方法1:具体的な恐怖を体験する

依存による恐怖を断片的に知り、それを「怖い」と思ったとき、そのとき以降に、回避行動を取るようになります。

その恐怖感が大きいほど、その回避行動は大きいものになります。特に幼い頃の経験であれば、それはかなり大きくなります。

この点で、トラウマに類似していますが、トラウマは何も悪いことばかりではなく、「危機回避」という側面においては有効に機能すると思います。

依存を自覚する方法2:イメージで恐怖を生み出し、回避する

とはいえ、恐怖感を感じたときには既に遅いということもあります。典型例が薬物でしょうか。

薬物は依存のレベルが高いので、一度手をつけたらずっと続くと言われています。

そういうときは、依存している状態になった自分をイメージし、それを回避するという方法を取ります。

最近は、本・マンガの啓蒙活動も盛んであり、こうしたイメージ化が大切だと思います。

具体例

依存について、具体的に、お酒とタバコを例にして考えてみます。

お酒について

お酒は本当に依存性が強いと思います。

私の場合、お酒は一度怖い思いをしたので、そこ以降、「飲み過ぎる」ということが極端に減りました。

まだ飲み始めた時期ですが、大学生時代に、一度、お酒をあまりに飲み過ぎたことがありました。

その際に、「帰るぞ」となり、千鳥足で外に出ると、突如ガクッとなってしまい、地面から離れられなくなってしまいました。

歩道で横になったり、時々座ったりしていました。そのときに、友人の肩を借りて、友人の家に泊めてもらって、何とかその夜を超えました。

冷静に考えると、歩道で横になっていることの何が良かったのか分かりませんが、地面に張り付き、その後も、本当に自分の意思で歩けませんでした。

足を負傷したときでさえ、他人の肩は借りつつも、負担を減らす配慮はできました。しかし、この時は、全ての力を委ねざるを得ませんでした。

その翌日に「もうこんな思いはしたくない」と思い、そこから量を節制できるようになっていきました。

記憶があるか否かという1つの観点

私は、お酒を飲んでいる間、記憶があるタイプです。注意は散漫にはなるものの、聞いていたことは記憶にはあります。

お酒について、知人・友人と色々話していると、「お酒を飲んでも記憶があること」は割といいことな気がしてきました。

どうも、飲み過ぎて記憶をなくしてしまうからこそ、その時に自分がどういう状態だったのかが客観視できないようです。

そのため、後から自分の話を聞くのですが、それは自覚していないので、自分の話ながら他人のことを話しているように聞こえるそうです。

そのため、最後は、「まあいいか」となり、また飲み会に繰り出すループとなるようです。

この話はお酒の場で聞きましたが、かなり印象的でした。

依存に至る経路は色々あり、誰しもなりうるものだな、と感じました。

タバコについて

私の場合、幼い頃、喘息持ちだったので、「吸えない」ものとなっています。

喘息自体は、その後水泳をやって克服したと思われるのですが、リスクを犯す行動は避けたいと思っています。

この他、私自身、ホコリ・ハウスダスト・猫・花粉にもアレルギーがあり、そもそも吸い込むものについてはかなり敏感であるということも大きいです。

これからどう考えていくか

とはいえ、依存は無自覚に進んでいくものです。そのため、自覚できたとしても、そこからコントロールできるまでには時間のギャップがあります。

私の場合、今乗り越えたい依存は、甘いもの依存です。

食べるのを完全になくすことをそもそも考えていましたが、それは辞めました。これまでずっと無意識で食べてきたのは変えようがないので、いきなり全てをなくすのは無理だと分かりました。そして、これは、「全部なくしてみよう」と一度思って挫折しないと分からないとも感じました。

そんなことは述べずとも、

いきなり「全部なくす」ことは、無理だから辞めよう。

ということは、色々なところで言われているし、知識としてはあると思います。しかし、「知っている」と「できる」は雲泥の差があります。私は、結局試してみないと分かりませんでした。

なお、お酒も、自分でコントロールが効く範囲では、完全に断つ必要はないと思っています。あくまで自分で自分をコントロールできる範囲で扱えるようにすることが大切です。そして、コントロールできなければ、それは断つときです。

健康への希求

いわゆる思春期のとき、私は怠惰な生活がカッコいいと思うこともありました。結局は私はお酒が弱いのでそもそもできないのですが、毎日のように飲んで、色々な交友関係を持っているような人に憧れもありました。

そんな折、志村けんさんの訃報は、私にとっては、健康の面でのインパクトが大きかったです。というのも、志村さんはタバコもお酒も毎日のように吸い・飲まれていたというのが印象付いていたからです。

もちろん、原因は複合的なものですが、とはいえ、70歳の訃報は今の時代には早すぎるように感じました。志村さんの知人ではないものの、死に対する人間の無力さを感じました。

そして、私の場合は、そもそも身体が強くありません。高校時代、毎月1度は風邪で学校を休んでいたほどには弱かったです。そして、幼い頃の薬の貸与の影響かと思っていますが、今も体温は35度台が平熱です。だからこそ、健康な人よりもはるかに気を遣う必要性を感じました。

これまでは健康を求めることの意義に懐疑的な自分がいました。しかし、自分でコントロールできる範囲を増やすという観点を考えたとき、「明日を作るため」の食事を取っていこうと思うようになってきました。

関連記事

↓こちらです↓

この記事を書いた人

相羽涼太

相羽涼太

読書、手帳術、旅行記・訪問記・食レポ、ジム(運動、食事)、英語学習などを中心に記事を更新します。

インターネットの登場で、「考える」ことが減りがちな今こそ、自分なりの軸を持って、考え、発信していくことを大切にしたいと考えています。

SF(上位10位、2019年1月現在):慎重さ、収集心、個別化、責任感、自我、指令性、目的志向、自己確信、信念、学習欲