朝令暮改という言葉はかつて私はあまり好きではありませんでした。
物事に一貫性を求めるタイプであるということもあり、コロコロと考え方や意見を変えるのは好きではありません。
ただ、一貫性だけを求め過ぎるのもダメなのです。朝令暮改をするのが大事な局面も多くあるのです。
そして、人間は変わったとしても、そのコアの部分は変わらないものです。
この記事では、朝令暮改でもいいと思えるようになった経緯を紹介していきます。
過去の思考を取り消す必要はない
かつての私は、発言内容を変える場合は、過去の思考を取り消すことも必要、くらい重く捉えていました。
何事にも「正しいこと」のようなものはあって、それを見つけていくことが必要だと思っていました。ただ、これはあまりに理想論過ぎていました。真実はあるのかもしれませんが、全てが分かるということは基本的には起こりえません。
そして、人間は、各々が別の価値観を持っています。家庭環境・コミュニティの違いからも、どんどんその差は広がっていきます。
そして、価値観は、自分が正しいと思っていることが大事です。他人の価値観に口を出しても、その価値観を生み出した背景を完璧に知ることはできない以上、口を出し過ぎてもそこにメリットはありません。
実際は、割と一貫性がある方だと自分では思っていたのですが、振り返ってみると、5年前に言っていたことと、今言っていることで結構変わっていることがあるものです。
だからこそ、人間の価値観は結構変わるものなのです。当時も正しいし、今も正しいということは成り立つのです。過去の自分は今より更に未熟ではあれど、否定する必要はなかったのです。
価値観は変わる
人間が持つ価値観は変わりうるものだということを色々な人が言っていて、頭ではそれが理解していました。
しかし、実際の行動では伴いませんでした。価値観は変えてはいけないものと強く思っていました。
発言の一貫性こそが大事なのだと思っていました。
もちろん、一貫性は大事です。私自身、自分の信念の部分はあまり変わっていません。
しかし、新しい知見が入ったとき、価値観が変わることもあるのです。それを認められるようになると、「朝令暮改でいい」という意味も理解できるようになってきました。
昔話の非生産性
価値観は変わっていいと思ったきっかけとして「昔話」があります。
そもそも昔話をすること自体は楽しいものです。
学生時代でやったバカバカしい当時の武勇伝や、仕事の仲間で達成したことやそこに至るまでの苦労は、その経験自体は当時1度経験したに過ぎないものの、それが思い出となり話されることで、その想いは実際の経験よりも何十倍になって膨らみます。
そして、そんな昔話をしているとき、その経験を積んだ当時に戻り、イキイキとした感じさえします。
しかし、何度かそれをやってみて、ふとしたときに気づくことがあります。「これは生産性のあることなのか?」と思ったのです。
昔話をした場合、得られるメリットとすれば、まずその場が楽しいというのがあります。何度も話すと、その輪の中では明らかに鉄板ネタのようになっていきます。そして、思い出を再度皆で想起し合うので、楽しかった思い出がどんどん美化されていきます。
ただ、この時間には、前進が伴っていません。そして、美化されてその現状に満足してしまう可能性があります。自分が秘めていた能力を活かせずに終わることほど虚しいものはありません。
私は、新しい価値観を受け入れ、変わっていきながら前進する人でありたいと思うようになっていきました。
付き合う人も変わる
価値観が変わると、必然的に付き合う人も変わってきますし、そういうものなのです。
以前の私は、知り合った人をできる限り大切にしようと思ってきました。
しかし、出会いがあれば、いつか別れもあるものです。違う方向に舵を切れば、どうしても別れる必要も出てくるものだったのです。
もちろん進学・異動など強制的な別れは納得せざるを得ないのですが、自分の価値観が変わると、場所が同じでも自然に距離ができてきます。そんなとき、旧友と会わないようになっていくと、あらゆる人間関係が絶たれる恐怖がありました。
実際は、少し距離を置くようになっても、あらゆる人間関係が絶たれることはありませんでした。本当に人間は社会的な動物だなあ、と不思議に思ったのですが、交友関係を狭めたら、新しい出会いが必然的に訪れてくるものなのです。
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