「後悔ない人生を生きている。」
そう張り切って言える人生を送りたいと思っています。実際、偉人の名言でしばしばこういう類のものを見ます。
しかし、自分の人生を振り返ると、正直、後悔する場面はあります。
時間が経過するにつれ、後悔しても昔には戻れないという割り切りはできるようになって来ました。とはいえ、完全に吹っ切れたかと言えばそうでもないのです。
そんな自分を許して、次に向かえるよう、記事を書きたいと思います。
目標を持たなかったために劣等感だけを感わった学生時代
過去に戻ることはできないのですが、学生時代の私には1つ大きな後悔があり、「何かに熱中しておけばよかったな」という想いがあります。
特に高校時代のときが顕著ですが、当時の私に熱中するものがなかったため、淡々と部活と勉強をして過ごしていました。どちらも最低限はこなしていましたが、どちらも熱心な生徒ではありませんでした。
部活は引退すればそれで一旦終了するので、あまり感じたことも多くなかったですが、受験勉強のときには、劣等感を強く感じました。
部活ではその分野に関してはという限定がついていた印象ですが、勉強については、「勉強ができる奴=凄い奴」のような空気感が漂っているように感じ、それが嫌でした。
それが嫌だと感じたまま、時間だけが過ぎていきました。今から振り返れば、その嫌な感情は、1つの軸のみで人間すべてを判断するという考え方が嫌だということなのですが、当時はそれも分かりませんでした。ただの思考停止だったのですが、当時はそこまで考えが及ばなかったのだと思います。
その原因は明らかで、当時の私は、将来のことについて真剣に考えたことはほとんどありませんでした。ぼんやりと「〇〇になりたいなあ…」と思うことはあっても、それはただTVとか、その当時の最新の情報に乗っかっていただけだったのです。
だからこそ、よくある受験勉強成功者の話で、「毎日14時間勉強してきました」といった話を聞くと、ただただ劣等感を感じました。
私も合わせてやってみたことはありましたが、数日はできても、それを継続することはできませんでした。単純に目標がないので頑張れなかったのです。
しかし、そのネックが目標や他の要素にあるなんて当時の私には分析できず、そうした話を聞くたびに劣等感を強く植え付けられていきました。
親や周りからの期待が苦しかった
親や周りの期待も苦しく感じました。
最初は違います。最初は良い成績を取ったりすると褒められて、それが嬉しく感じました。
しかし、それも限界が来ます。例えば、小学生のときに、親に通知表を見せたら褒められて嬉しかったとします。
とはいえ、通知表には、最大評価という名の限度があります。私の場合は、5段階評価だったので、いつの日か、5を取れる教科が増えてきます。
そうなったとき、無意識のうちに、「5を目指す」から、「5以外は価値がない」に変わってきったのです。テストの点数についても全く同様でした。
そして、いつしかそれは辛さしかなくなるのです。その物差しで自分を測定されるのが嫌になっていきました。
実際には、点数で評価するのは客観性の観点からすれば優秀な方法だとは思います。しかし、私にとって印象に残っているのは、辛かった記憶でした。
過去の自分を許して、前を見る
こう振り返ると、捻くれてもいたし、それなりに劣等生だったと思います。
しかし、今や人生は100年時代とも言われています。例えスロースターターだとしても、コツコツやっていけば、どこかで結果に繋がる可能性も高くなりました。
私自身、これまでの人生では、ここに述べてきた後悔を強く感じてきました。よく無能感を感じていました。そして、学生時代の自身が感じた心の傷はまだなくなってはいません。
だからこそ、せめてこれからは、後悔しない人生を送りたいと思います。
実際、よく考えてみると、学生時代の自主的な活動やゼミ活動の時間は私にとって充実していました。そこには私に自主性がありました。そこで過ごした時間に無駄がないかといえば、もちろん雑談とかもしているので、あったと思いますが、そこに後悔はありません。
自分の得意を活かし、自分なりに、少しずつ歩みを前に進めていくことで、過去の自分を素直に認めることができるようになってくると信じています。
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