かつて「アドバイス」をよくしており、求められていないのに情報提供をしていたこともありました。
これは、アドバイスすることに対して楽しさがないのに続けていました。
それは辛いだけですので、その対応を辞めることにしました。
アドバイスを多くしていた過去
問題解決脳によるものなのだか分かりませんが、無意識のうちに、アドバイスをよくしていました。
今から見ると奇妙ですが、1聞かれたら、10返すくらいに、色々な情報を伝えていました。
後輩などに対し、「こうした方がいい」「こうするべきだ」などと言ったりしていました。
アルバイトの1つとして中学生に対して塾講師として教えたこともありましたが、ただ教えるだけだと面白くないので、人生のヒントになればいいと思い、アドバイスのような言葉を入れたりもしていました。
アドバイスをし続けることへの疑念
よく色々教えたりアドバイスをしたりはしていたのですが、イマイチ満足感がありませんでした。
むしろ、発言をするたびに、「それを発言している自分はできているのか」という疑念もありました。
何より、私にとって一番苦しかったのは、たとえアドバイスをしたりしても、アドバイスされた側は実行しないという現実でした。
「これをすれば良い」と思い、発しても、それを実行されないという状態なのに、また気づいたときにアドバイスをしている自分が、いつの日か苦しくなっていました。
そこに対して目を向けたとき、その状況に対して私は、悲しい気持ちと絶望感を感じていたことを知りました。
アドバイスをするのは向いてなかった
人を成長させるのは一つの能力です。スポーツでいうところの監督・コーチが有名な例ですが、「〇〇トレーナー」と名前の付く方は多くいます。
そして、「自分は××を育てた」と言っているのを聞くと、その方への尊敬の念を覚えたりしていました。そこからアドバイスをしていたような気がします。
恐らく、それをTVか何かで何度か見聞きし、それに憧れて、アドバイスめいたことをやっていたのかもしれません。
しかし、自分の傾向を知り、よくよく考えてみると、私は、適切な助言をして、人を成長させることに長けている訳ではありませんでした。
むしろ、自分で行動することや発言によって相手に影響を与える方が得意な傾向を持っていたのです。
かつて思った尊敬の念は、「××を育てた」ということでフォーカスが当たっていたことがカッコ良く見えたのだと感じています。それすらよく分からなくなっていたので、固定概念の怖さを感じます。
アドバイスはしなくて良い
私は、「アドバイスを与えた結果、それが他者の人生を変えるキッカケになると嬉しい」と感じて発していました。アドバイスをするときは、自分なりに向き合って言葉を発しているつもりでした。
しかし、そんな真剣な相談は早々来るものではないのです。相手のニーズを察しようと考え過ぎて、求め以上のことを勝手にしていました。完全に空回りをしていました。
何より、別にアドバイスをしなくても、嬉しい瞬間はあることに気づきました。少しでも「人に影響を与えること」ができれば十分に嬉しいのです。
先日、自分が質問され、良い理由を話したもの(Apple Watch)に対し「興味が湧いた」と言ってくれた、ということがありました。
文字にすると非常に小さいことに見えるかもしれませんが、実際体験すると、それだけで十分嬉しさを感じる自分が、そこにはいたのです。
人によってできることは違う
カッコいい教えを伝えるコーチとかカッコいいですが、私向きではありませんでした。
では、私が求めており、できることは何だろうか、と思いました。
そんなとき、かつて「(あなたは)背中で見せるタイプ」と言われたとき、ハッとしたことをふと思い出しました。
紆余曲折しましたが、自分で行動することから始めることが重要だったのです。
その上で、自分が取り組む姿を見る人の中で、刺激を受けてくれる人がいるのであれば、それは更に嬉しいことではあります。
あくまで、自分を満足するのが優先で、そこから他者貢献の道が見えて来るのでした。そんな単純なことでさえ、うだうだと色々考えると、失念してしまうことを知りました。
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