褒められることも叱られることも苦手でした。
褒められると、嬉しくなって調子に乗ってしまうことを不安視し、叱られることは辛く、苛立ちを感じることもしばしばあり、できればその場面に遭遇したくないと感じていました。
しかし、それは他人の軸で自分を評価していたからそういうことが生じていました。考え方の変遷を整理します。
褒められること・感謝されること
学生時代は、褒められることを認められずに過ごしてきました。
それは、それを認めると、調子に乗ってしまい、かえって上手く行かないことがあるという教えを受け、実際にそういう経験をしたことがあったことが原因でした。
また、感謝の言葉「ありがとう」についても、あくまで社交辞令で言っているものに過ぎないと感じていました。
しかし、今考えると、それらの言葉を受け取るときは、しっかり嬉しく感じる自分を認め、そこから兜の緒を引き締めれば良かったんだな、と今では感じます。
感情の動きを自分で抑えると、感情の起伏は減りますが、機械のように表情が凍ってしまいます。
人間は褒められり感謝されたりすると嬉しいものなのです。その後、冷静になって次の行動に移すことも大事ですが、気持ちは否定しなくて良かったことに気づきました。
そして、更にその考え方を整理する言葉に出会いました。
「人生を豊かにすることだけめざしてものごとに取り組んでいると自然に人から感謝されるが、人からの感謝というのはあくまで、こちらの努力が身を結び、意図した効果が上がったことを示すフィードバックにすぎない。」(NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版)
あくまでフィードバックの1つに過ぎないのです。プレッシャーから解き放たれ、大分気持ちがラクになりました。
叱られること
叱られる場面は、できれば遭遇したくない場面でもありつつ、指摘いただく方によっては、「ありがたい言葉」とも思える不思議な概念でした。
少しずつ客観的な視点から「叱られる」ということの理解が深まってきました。
叱られることは認められていること?
「認められているから叱るんだ。」
そう教えられて育ちました。
それは、一面では正しく、一面では間違っています。
合っているのは、叱るのにもエネルギーを使うのは事実なので、人によるのですが、特に人を「見捨てる」タイプであれば、無視されず、叱られているということは、成長して欲しいと思って指導していることは真実です。
間違っているのは、叱る原因も色々あり、例えば、ストレスを別の要因に抱えており、その矛先になっているだけだったり、叱ることで、優越性を感じ、自尊心を満たしている可能性なども考えられることです。
この考え方で物事を考えると、自分はあまり幸せを感じることができないことに気づき、採用したくないと感じました。
叱りに対しての感じ方の違い
叱られた経験は多くありましたが、結局、それが「いい指導」と感じるか「高圧的」と感じるかはあくまで受け手の解釈次第です。
個々人が持つ価値観は、人によって大きく異なっています。だからこそ、双方向のコミュニケーションを心がけないと、意図が伝わっていないことが多くあります。
感じ方を変える
自分が変えることができるのは、叱るときの「伝え方・コミュニケーションの取り方」と、叱られたときの「感じ方」だけです。
叱られる場面では、他人の刺激によって感情が芽生えますが、その刺激を受けた原因を探ることで、感じ方を客観視することができます。
あくまでこれもフィードバックの1つに過ぎません。自分が納得できる指摘であれば変えていけばいいのです。納得できなければ、変えるのは難しいので、かえって気にしない方が良いと考えています。
逃げてもいい
とはいっても、苦しい・ムカつくなどのネガティブな反応は瞬時にやってくるものです。
そして、それが嫌なら逃げていいのです。「苦しい」と感じることに対し、自分が嫌なのであれば、そこから逃げても、避けてもいいのです。
「紳士な対応じゃない」などと批判を受けることもあるかもしれませんが、我々は感情という不安定なものを持っているので、少なくともその時点においては仕方ないのです。
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