生活の習慣化がある程度計れるようになってきて、1日の中で、「暇過ぎて嫌だ」と思うことはほとんどなくなってきました。
しかし、ぼんやりとした悩みは抱えるようになり、気持ち悪い感覚を抱いています。解決策も見えないので、妙な感覚です。
1日の流れができてきた
「習慣化したい」と思ってから、本記事を書くまでに9ヶ月ほど過ぎました。
お陰で、ここ数ヶ月間くらいは、やることが概ね固定化されてきました。もちろん、やることが日々変わる部分もあるので、時間帯として大まかな分類としていることもありますが、概ね1日の流れは固定化されてきました。
また、学生時代は部活などがあったのですが、社会人になってからずっと「休日の過ごし方」に悩んでいて、暇過ぎて嫌になる自分が嫌になったりしていて、休日があまり好きではありませんでした。
しかし、休日も、やることの大枠が決まり、退屈過ぎて嫌になることはなくなりました。
もちろん、「習慣化した」と言っても、急遽の案件が入ったりして、全てやることができないことはあります。ただ、それでも、それにより妨害される時間にも傾向があるので、次第に、急遽の案件が入っても、ある程度予想が付くようになってきました。
習慣化後の不安
しかし、習慣化して、概ねの1週間が固定化してくると、暇な時間こそないものの、「何かつまらない人生を送っているのではないか…?」と思ってしまう自分がいます。
そもそも、暇な時間があると結構不安を抱え、妙な強迫観念に駆られているような感覚を覚えます。
「自分を大切にして生きる」ことを決めているはずなのに、他人が楽しそうにやっている姿を見ると、妙に心がざわつく自分がいます。
恐らく心の問題が大きい感じもしますが、今の自分にはなぜそう感じるのかよく分かりません。
焦りと向き合う
現時点で分かったことは、「ずっと同じことだけをしていると物足りなく感じる」ということです。
習慣化したことは当たり前のことになっているので、余裕が出てくると、「何かもっとやらなきゃ」という焦りが出てくるのだと思います。
しかし、習慣化した事柄で時間は取られているので、習慣化する事項を追加してしまうと、今度は時間が足りなくなってしまいます。
だからこそ、自分の焦りと向き合う必要があります。
そのために、少し前は、「刺激を入れること」を考えてみたりもしました。普段やっていないことを2週間に1度入れるなどをすることを考えてみたのですが、正直、対外的な予定は相手方もいるので、コンスタントに刺激を入れることはできないことが分かりました。
何より、それは対処療法に過ぎず、根本的な治療になっていません。
自分は何がしたいのか
私は、「自分が何がしたいのか」というのがハッキリ決まってはいません。
もちろん、ぼんやりと決めたことはいくつかありますが、それは「今興味があること」なのか「一生やっていきたいほどの熱量を持っていること」なのかがイマイチ自信を持てずにいます。
そして、本当に熱量を持っていれば、そのように考えている暇もないようにも思います。
色々と分からないことが多くなってきました。ぼんやりとしているので、気持ち悪さもあります。
「こんな状況を楽しもう」なんて言えればカッコいいのですが、水中でもがいているような感覚の中で、そんな台詞は吐けないです。
モデルは何か
「自分の人生を生きた意味は何か。」
「そのためにどう生きていくのか。」
その解を考えようとする自分がいます。現時点でそれに対し、自分なりの答えを出せていません。
軸があって、人生の生きる意味を決めて、それに邁進しているように見える方々に憧れを覚えます。そして、私は、「夢中になる」ことを基本的にしてこなかった人間なので、苦しさも感じます。
よく分からない中でも、そのヒントとなるのは、自分の憧れるところにあるとは思います。
私がかつてよくやっていたバスケットボールにヒントがあると自分では思っており、「攻めのポイントガード」のような立ち位置でありたいという憧れがあります。
パスを武器とする人間でありながら、シュートも決める人間です。
バスケを見るときもやるときも、私はアシストパスが好きで、自分が相手を引き付けて、フリーの味方にパスをするプレイが興奮します。味方は簡単に得点をします。
ただ、パスが上手いことに特化したプレーヤーというよりも、自分で点も取るけれども、パスもするプレーヤーが好きなのです。
だからなんだ、と言われると分からないのですが、このような「興奮する」とか「夢中になる」ことにヒントはあると思います。
また、スティーブ・ジョブズの生き方を最初に知ったときも、かなり興奮に近い気持ちを覚えました。もの凄くカッコイイな、と思いました。
今を生きていく中で見つけていきたいものです。