かつての私はオールラウンダーに対し憧れを感じていたのですが、それは諦めた経緯についてです。
オールラウンダーにはなれないし、なる必要はなかったのです。
オールラウンダーへの憧れ
いつの頃からなのかははっきりとは分かりませんが、気づいた頃には、「1つのことを極めた人間よりも、オールラウンダーで色々なことをバランス良く知っている人間の方が良い」というような価値観を持っていました。
これを持つに至ったのは、小学校時代、通信簿で段階評価の最高点を取れるだけ褒められたことからなのかもしれませんし、スポーツと勉強両方できる人が、先生からも評判が高く、周りからも人気があったことからなのかもしれません。
キッカケは分からないのですが、「色々やっている人が凄い」という憧れを抱いていました。
専門性を持つことへの良くない印象
オールラウンダーがいいという価値観を持ったのは、学生時代にインターネットが徐々に使われるようになった時代背景もあったように感じています。
専門性に対し、当時は逆風が吹いていたように感じます。もちろん、オタク=専門性と繋げるのは異論もあると思うのですが、学生時代なので、私はイコールで考えていました。今考えれば安直な思考ですが、知らないので、仕方のないことだったと思います。
そして、15〜20年前のオタクの印象は、「電車男」のようなイケテナイ印象が強かったです。だからこそ、色々できることへの憧れが強化されたように感じています。
オールラウンダーへの疑念
オールラウンダーに憧れていたのですが、徐々に、「オールラウンダーである」ことが自分らしいのか、という疑念も湧いてきました。
当時、色々な漫画を読んでいたのですが、オールラウンダーのキャラに、「器用貧乏」という表現が良く使われていたのが印象的でした。
スポーツ漫画なんて特にそうです。スラムダンクでいえば、「3ポイントが入る」「リバウンドが取れる」だけで十分過ぎる戦力なのです。
そして、漫画のキャラクターでいえば、オールランダーはパッとしないものです。
そこからオールラウンダーに対する憧れは疑念に変わっていきました。
「ゆとり教育」批判への反骨心
私は、「ゆとり世代」に属します。
学生時代、夜にワイドショーを見ると、色々な人が「ゆとり世代」を強く批判する映像を良く見ました。「ゆとり教育」を批判しているのではなく、「ゆとり教育を受けた人」の批判に変わっていて、悲しみを感じました。
実際、人から直接「ゆとり世代」だからなあ…などと言われたことはありません。しかし、見ず知らずの人が批判しているのを高校生だった自分が見たときは、強い憤りと反骨心を覚えました。
人は一人一人違うのに、一括りにして批判することが嫌だと感じたのだと思います。
だからこそ、「ゆとり世代」の人間にもしっかりやる人間がいることを継続的に示していく必要があると考えていました。
知識を詰め込んでない私が勝てる分野は何かと言われれば、焦点を絞って勝負することしかないな、と思うようになってきました。
オールラウンダーにはなれない
それでもまだ「オールラウンダーがいい」という価値観も残存していて、色々やってみたのですが、実際、オールラウンダーにはなれないものです。
例えば、私にとっては「誰とでも初対面で仲良くなること」を諦めています。何度やっても、複数回会っている人には普通に喋れるのに、初対面の人しかいない場で話すと、冷や汗が出るのです。
だからこそ、仮にどれだけ憧れの気持ちを抱いたとしても、私がナンパの魔術師を目指すのは得策ではないのです。
また、世の中では底抜けに明るいポジティブな方がいますが、ポジティブに明るく話すキャラクターになるのも向いていませんでした。私はリスクから発想する傾向があるのですが、真にポジティブな方はそういう思考はしないのです。
目指すのはオールラウンダーではなく、できることを伸ばしていくことだったのです。
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