「知識を得ること」も大事ですが、「考えること」も大事です。
この2つは一連の関係にあり、「知識を得ること」をベースとして、「考えること」があると思います。
面に出るのは「考えたこと」ですが、その水面下には、「知識を得ること」があるのです。
知識を得ること
「知らないことは話せない。」
これは私の恩師が頻繁に発していた言葉だったのですが、それは真理だと思います。
日本では、かつての「詰め込み教育」が否定され、「ゆとり教育」になりました。私は、いわゆる「ゆとり世代」に属しますが、そのときに行われたのは、「考える力の重視」という名の「知識を入れる量の減少」だと感じます。
「ゆとり世代」という言葉自体に悪いニュアンスを感じるので、言葉自体は好きではないのですが、「ゆとり教育」が導入されて以降の生徒が知識量が減る傾向にあったのは本当だと思います。
その意味では知識を得ることは軽視できないことです。
考えるための前提としての知識
他方で、「知っていて、その知識を披露するだけ」であれば、それは今やAIなどがやってくれます。
実際、食事会をしているときに、知らない言葉が出てきたとしても、今や、本の名前が出ればその場でポチればすぐ読めるし、知らない単語もその場でスマホで調べれば大体の意味が分かり、話についていくことすら可能です。
だからこそ、知識は基礎になるもので、表に出すときはあくまで補足的に述べるものに過ぎないのですが、大事なものだと捉えています。
考えること
「考えること」は日本人にはあまり向いてないのではないか、としばしば思います。
日本での「ゆとり教育」は、考える力の要請に力点を置かれたはずですが、その効果を実感しません。いわゆる「総合的な学習の時間」の導入で、全体的な傾向として、日本人が「意見を発する力」が伸びたとは思えないのです。
「KY(空気が読めない)」という言葉が少し前に流行したり、「忖度」という言葉が流行したりと、未だに「空気を読む」ことは暗黙の了解のようにある場合も多く、「考えること」を必要とする場面が少ないのかもしれない、と思っていました。
だからこそ、私自身は考える力を身につけたいと思うようになりました。
議論を戦わせる〜ディベート〜
ディベートについては、「ちゃんとやっておいた方が良かったな」と今になっては思います。
私は、ディベートを学生時代に実施した経験は実質的になく、あったのは授業で体験のようにやってみただけです。
これをやると、メリットとデメリットに分けて考えざるを得ないので、「冷静な目で見つめる」力を養うように思います。
それこそ、「空気を読む」文化にあるように、結構日本人は論理より感情面を重視する傾向にあるのでは、と感じます。
もちろん、この文化が、時に美しい光景を生み出します。映画などでたくさん題材があり、常に感動作があるのがその良さの一面だと感じます。
ただ、その曖昧さが特に仕事をする上ではあまり良い方向に向かないことがあるように思います。
そのため、ディベートに長けることで、海外の人と比べれば普通でも、日本人の中では良い意味での異質さを持つような感じがします。
哲学的な思考を身につける〜フランスでの「哲学」の試験〜
フランスで行われる「哲学」の試験は面白いなあ、と思います。それこそ、「考える力」を試す試験です。
実際、フランス人は、議論好きが多いとは感じる。他方で、日本人からすれば、概念的な話が多く、「地に足がついていないのでは」と思うことも多いようにも感じます。
理想を追うのは大切ではあるのですが、現実を見て、そこを起点として考えることも大切だと感じるのです。
もちろんデメリットもあるが、無宗教な人も多いことも相まって、日本人の全体的な傾向としては、「現実を起点として考える」ことは強みとなるのではないか、と仮説を持つようになりました。
両者の関係性
「どちらが大切か?」と聞かれれば、私にとって大切なのは、考えることであり、それを伝えることで、自分の新しい側面は開発されていくと感じています。
ただし、その前提としての知識は必要である訳で、その上での考えることや発信することという関係にあることも忘れてはならないと思うのです。
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