先日、新海誠監督の最新作、映画「天気の子」を見ました。
前作の「君の名は。」は、大ヒットしているのを知ってから、後追い的に見ました。良い作品であるとは思いますが、あまりに評判というハードルが上がってしまったので、私には「ここまでの評判のものでは…」と思ってしまった面があるのが正直なところです。
その面、本作は、何も事前情報を入れずに見ました。
事前情報を入れず、フラットな目から見た本作は、素晴らしい作品でした。
私は「メッセージ性」の強い作品に心惹かれるのですが、本作は作者の想いを強く感じる作品でした。
感想に入る前に〜あらすじは知らない方が良い〜
本作については、映画側の戦略か分かりかねますが、TV・ネットともあらすじを伝え過ぎだと感じます。
本作を見終えた後で、ネットで検索してみたところ、すぐにあらすじが出ますし、事前情報を知った後だと楽しみは半減するなあ、と思いました。何も事前情報なしで見る方が、ストーリーに引き込まれると思います。
タイトルの、「天気」「子」ってどういうことなんだろう、と思いながら映画を観る方が楽しいです。
確かに、前提情報がある程度あった方がストーリーに入り込みやすい作品も存在します。複線が多く分かりにくい作品などは、事前情報が役に立つケースがしばしばあります。
しかし、本作は、ストーリー自体は複雑ではないため、「何も知らず」行った方が心動かされる作品だと感じています。
さて、前置きはこのくらいで、ここ以降、映画の中のストーリーラインにも少し触れつつ述べていきます。
成長を経て、自己確信を持つ物語
本作の最も素晴らしいところは、主人公(帆高)の成長にあると私は捉えました。
最初の主人公(帆高)は実に自信がなく、何より受動的です。東京に来るという行動はするものの、本当に島の息苦しさから逃げたかっただけで、東京に来た目的が特にないように見受けられます。
それが、ストーリーを通じて、主体性を獲得し、自己確信を持つに至るのです。ストーリーの終わりでも主人公は18歳ですが、周りの意見に耳は貸しつつも、自分を信じるように変わっています。
この成長の仕方が実にリアルで、感動を生みます。
周りの大人vs 子ども
主人公の成長の仕方は、いくつかのシーンにも現れています。
本作では、大半のシーンは、彼の自由を大人が奪おうとします。その、固定観念に捕らわれた大人と自由な子供の対比が見事に描かれています。
例えば、主人公(帆高)が補導されるシーンで、ヒロイン(陽菜)の年齢詐称を知り、「自分が一番年上だったじゃんか…」と気づき、これまでヒロイン(陽菜)の主体性に導かれていた主人公に、主体性が芽生えていくきっかけとなると思われるシーンがあります。
しかし、対比を示すかのごとく、大人である刑事は、「チッ、面倒くさいな、、」という台詞を吐いています。
他のシーンもあります。
銃を向けあうシーンがあるのですが、
このシーンでは、大人たちが「やめろ!!」と言い続けます。「これ以上やったら社会的にダメになってしまうから」というのがその理由です。
主人公は、「自由にさせてくれよ!!陽菜に会いたいだけなんだ」という想いを抱えつつ、強行突破します。
最後のシーンも同様で、
大人が、「あんま気にするな」と言っていましたが、主人公は、「違う。自分が選んだ道なんだ」と捉えています。
過程における主人公(帆高)の行動は社会的に良くないものである点はありますが、そこはフィクションの世界です。
注目すべきは、シーンを追うごとに、主人公が、どんどん「自分の意思」を発現してきているところです。それを周りの大人との対比の中で際立たせています。
「自分は、自分の考えに確信を持って行動しているのか」
「自分は、本作で描いている周りの大人になっていないか」
と、強いメッセージを感じさせます。
エゴか世界平和か
本作の結論は、ヒロイン(陽菜)が救われますが、代わりに日本に大きな代償をもたらした、というものです。
映画には、世界や日本が危機に瀕するストーリーは多くあります。
その際の解決策を分類すると、1つには、アルマゲドンなどが典型的ですが、その際は、誰かが犠牲になって、世界が救われます。
もう1つは、何らかの外部要因が変わリ、危機が脱するパターンもあります。
本作では、この2パターンとは別で、危機が現実化するという結論になります。世界平和(本作では日本ですが)を捨て、エゴを取ったのです。
この結論は、何を意味していたのでしょうか。
自分の幸せが前提で、他人に幸せを与える
ヒロイン(陽菜)は、自分の身を危機に晒すことで、一時の幸せを得て、その後、日本のために命を賭そうとしていました。
この行動により、多くの他者は幸せになります。
しかし、それを選ぶことは、「自分の幸せを蔑ろにしていないか」という疑問が生じます。
本作で描かれたのは極端な例かもしれませんが、自己犠牲の時代から、幸せを追求する社会への変革が、現代の関心として強くなっていると感じています。
本作は、自己犠牲の精神に対し、強い問題提起を投げているように私は感じました。
自分の幸せがなければ、真に他者に幸せを与えることはできません。これは原則であるはずですが、日常生活を送っていると、次第に忘れ去られることがあります。
その原則を思い出させてくれる作品だと感じました。
人間1人の「生」の限界
今や、人生100年時代と言われるようになりました。
しかし、100年になったとしても、地球の歴史から比べてしまうと、1人の人間の歴史なんてわずかなものです。
だったら、自己犠牲をするのではなく、自分達の幸せを求めてもいいんじゃないかな、というテーマは、非常に強いメッセージであり、今の時代に合った、強烈な問題提起だと感じました。
間違えから学ぶ
人間は、そこまで器用な存在ではなく、いきなり正解を導くことはなかなかできません。
主人公(帆高)も間違えまくる中で、徐々に気づきを得て、立派になっていきます。
特に、ヒロイン(陽菜)が、「晴れて欲しいよね?」と聞き、主人公(帆高)は「うん、まあ晴れて欲しいけど…」と曖昧にyesの決断をします。
その決断のために、ヒロイン(陽菜)を失うミスをしました。
自分の過ちに気づいた主人公は、決断をして、「成功するかは分からない」けれど、主体的な行動を次々と起こしていきます。
本作の結論は、ヒーロー、ヒロインからすれば、ハッピーエンドとなりますが、大事なのは、主人公が主体的に活動しようとしまいと、「成功するかは分からない」行動であった、というところにあります。
成功するかは分からないが、「自分がやること」を決めたら、それに向け強い意思を持って行動する。
実際、ハッピーエンドにしなくても、主人公が主体的に生きていく様子を見せても、本作は成立します。
その瞬間から、主人公は、「自分の生き様」を自分で決め始めたのです。
「あなたは、自分の生き様を自分で決めていますか?」
と聞かれているかのようです。
登場人物の背景をわざと深掘りしていない
ここからは技術面で感銘を受けたところです。
本作の特徴として、登場人物の背景を少ししか掘らない点が挙げられます。
例えば、高校になって東京に出てきた本作の主人公(帆高)は、島で過ごしていた中学以前の時代、締め付けられていたような狭苦しさを感じていたようですが、中学以前に彼がどう思っていたのかは全く触れられません。
ヒロイン(陽菜)も同様で、「晴れ女」の経緯となる、1年前に母親が亡くなったという件については触れられてはいるものの、それ以外の彼女の背景は不明です。
なぜ描かないのかな、とふと思いましたが、本作のヒロイン(陽菜)には、「祈ることで天気を晴れにできる」という特殊能力がありました。この点で、おおよそ現実世界にはありえない壮大なフィクションが含まれています。
しかし、人物背景を伝えてしまうと、事情の特殊性がどんどん出てしまいます。そのため、わざと深掘りしないことで、本作の「テーマ」に対する考えをダイレクトに伝えているように感じました。
見終えると、このストーリーにおける「晴れ女」設定も、「もしかしたら自分の身の回りで起こりうるのではないか」と感じさせます。
正直、作品を見ている途中、「これありえなすぎじゃないか…」と思ったときがあったのですが、ストーリーを追っていくうちに、作品の世界観に入り込んでいました。
主題歌について
RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」という曲がこの映画の主題歌です。
この歌ですが、映画視聴前に聞くと、正直、うーん…という感じでした。「愛にできる」という言葉の抽象度の大きさについていけなかったのだと思います。
しかし、映画を見た後、この曲を聴くと、沁みます。
RADWIMPSは、詩も韻を踏んでいるものが多い印象で、リズムが素晴らしいイメージがあったのですが、詩を聞かせる歌だったので驚きました。
本作の趣旨を理解した上で曲に昇華していることが、本人の口から聞かなくても分かります。これぞ、映画の主題歌です。
編集後記
自分が良かったな、と思う映画をみると、エンドロールを見ているときに、「ここに名前が載ってみたいな」といつも思います。
作り込まれた作品を見ればみるほど、それに携わる人間の「熱」をそこに見て、それがいいな、と思います。
映画、いいですね。
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